明治43年の大水害 その記憶を留める「砂利山」
田面澤村(現川越市)では、耕地整理法が施行されて10年も経たない明治41年から、地元の水田の耕地整理を開始しています。
ところが、事業に着手した矢先の明治43年夏、関東地方は、前線や二度の台風などによる大雨が降り続きました。各地で堤防が決壊し、中小河川もあふれたため、東京を含む多くの地域が未曽有の水害に見舞われたのです。
武蔵野台地上にある川越市街も、入間川の右岸より標高の高い左岸ですら洪水の被害を受けたのですから、右岸側の低地に位置する田面澤村の被害は甚大でした。
せっかく始めた耕地整理も、施行地域内に流れ込んだ土砂(中流域なので、主に砂利)で埋まってしまい、おそらく村民は呆然としたことでしょう。
それでも、村民はへこたれませんでした。
村人総出で、施行地域内に流れ込んだ砂利を処理する作業に汗を流したのです。砂利をどう処理したのかと言うと、処分用地を提供した大地主の耕地(換地後の所有予定地)に砂利を掻き上げ山を築いたのです。
こうして、村内には何基もの砂利山が出現し、その代わりに砂利が無くなった他の施行地域で耕地整理が進められました。
幸い、建設中だった東上鉄道(現東武東上線)の延伸工事のために砂利需要があり、多くの砂利山は、鉄道建設の資材として売却することができ、耕地に戻すことができました。
《 大正時代に完成した耕地整理事業により、当地域は整然と区画された水田が残されています。 》
《 ほぼ同じ高さになっていると見える水田も、上流から下流に水がスムーズに流れるよう、少しずつ耕地が低くなっています。平地における水田開発は、正確な測量技術がなければ実現できないのです。 》
しかし、一軒の大地主さんは、大きな水害があったことを後世に伝えるべく、非生産的な砂利山を売却することなく残したのです。
それが、あたかも古代の方墳のように見える前日掲載した写真の正体です。
文化財にもなっていませんし、由来を示す標識もありませんが、明治43年の大水害のモニュメントとして、今も健在です。
ちなみに、この砂利山のすぐ南に、東上鉄道の開業時の始発駅である田面澤駅がありました。
同駅は坂戸方面への延伸のため、数年で廃止となったのですが、当時の鉄道事業の稼ぎ頭だった砂利の取扱いを行っていたため、埼玉県内で一番の営業成績を収めていました。