公文書が簿冊で保存されていた頃
「情報公開」が真逆の動きを
公文書の問題が、次々と噴出していますね。
だいぶ前の話になりますが、国民から政府・自治体の情報公開が求められるようになり、それに政府・自治体が「しぶしぶ」応じざるを得なくなった頃のこと、役所の中で次のような「指示」や「会話」が行われている、といったうわさ話が立ち昇ったと記憶しています。
「これからは、下手なことを書くと、情報公開でひどい目に遭うぞ。」
「保存期間が定められている文書は、なるべく書くな。メモにしろ。」
「メモは、用が済んだらさっさと捨てろ。」
未来への裏切り
近年の公文書管理がずさんで、国民の知る権利が保障されていないのではないか、と話題が沸騰している最中ですが、現代ばかりではなく、未来の研究者や学生が現代の何らかのテーマを研究するに当たっても支障が生じる恐れがあります。
後世の方が、20世紀後半から21世紀前半の歴史的な課題を研究しようとする際には、当然、重要な一次資料である公文書を調べようとするでしょうね。その一番の動機は、政策の形成過程の詳細を確認したいということだと思います。
でも、得られる資料が、プロセスを詳しく記したメモが廃棄されてしまった後の、いわば「出し殻」みたいな決裁文書本体のみだとしたら、さぞかし困惑してしまうのではないでしょうか。
後世の人たちは、
「不適切な情報管理時代の行政資料は、何の役にも立たない。『しっかり情報公開していますよ。』と自慢していたらしいが、皮肉なことに情報欠如の時代だ。」
と溜め息をつくかもしれません。
鉄道院・鉄道省の文書
なぜ、こんなことを書くかというと、私は、放送大学で、地元の鉄道駅のことを卒業研究で扱ったことがあり、その時最も参考になったのが、国立公文書館に保存されている明治後期から大正時代にかけての鉄道院、鉄道省の簿冊だったからです。
簿冊には、正式な決裁文書はもちろんのこと、担当者の殴り書きのようなメモ、最終的な文言にする前の複数回に及ぶ修正の跡などが、古いものから順に綴じられています。生々しい政策形成過程が手に取るように伝わってくるんですね。ワクワクものです。
※ 上の二つとも、鉄道院の決裁文書。文書修正のプロセスが明白です。
埼玉県から提出された「ルート変更が必要だ」とする根拠薄弱な、「我田引鉄」丸出しの要請文書に対して、担当の役人が、
「埼玉県、何言ってんだ。訳が分からない。」
といった趣旨の書き込みまでしており、思わず笑ってしまうことも。
※ 上の文書も鉄道省の決裁文書。
左から2行目に、「埼玉縣知事の意見不明」とあります。
知事の意見は、「現坂戸市方面より、現川島町から現東松山市方面に向けて延伸した方が、水害に対する入間川橋梁の安全性が高い。」といった趣旨。しかし、その根拠は示されていない。
ちなみに、現川越市の洪水ハザードマップを見ると、危険度は当該知事意見の逆。「意味不明」と書かれてしまうのも、むべなるかな。
圧巻は、川越町・田面澤間の免許申請から、工事認可申請、竣工検査までが数日しかないという事実。ありえない話で、体裁を取り繕った感満載です。
これには裏があることが、前後の資料から容易に検証できました。実に面白い体験でした。
このような胸躍るような研究が、今の公文書管理が続くようでは、不可能になる危険性が大ではないでしょうか?
事実が後世にも伝わるように
数十年後まで秘密とされ、その後に初めて日の目を見る文書については、経緯を詳細に記した資料が必要不可欠です。
なぜなら、その時点になると、当事者の多くがいなくなったり、記憶が曖昧になったりしてしまい、ヒアリングなどから真相に迫ることが難しくなってしまうからです。
経緯を記した「不都合なメモ」が闇に葬り去られることが続くとしたならば、それは現代人にとっても、未来の人たちにとっても、けっして望ましいことではないのでは?
私は、とても悲しいことだと思います。
公文書館などが、経緯の分かる電子情報などを、しっかりと管理保存するシステムが構築されることを望みます。
本日は、文章のみで失礼いたしました。当時の資料の面白い部分については、おって画像をアップいたします。
* 3月15日、画像をアップしました。