「こやんぴ」のぶらりお散歩ブログ

お散歩大好きの「こやんぴ」が、ふと出会った植物や動物たちについて思いつくままに記していきます。

こやんぴの小学校生活 その3 学校の名前が変わった

複式学級のあった頃

 

 母校が、私の入学時点で「市立第五小学校」だったことは既述のとおりです。

http://blog.hatena.ne.jp/koro111koyampi/koro111koyampi.hatenablog.com/edit?entry=17391345971616709340

 

 ベビーブーム世代の次の学年だったので、1学年上のお兄ちゃん、お姉ちゃん達よりも1クラス少なくて2クラスでした。

 ベビーブーム世代の前後世代が大挙して小学校に押し掛けた時代にも関わらず、たった2、3クラスだったのは、首都圏に爆発的な社会増をもたらした高度経済成長が始まる前の、しかも人口の少ない田舎の学校だったからです。

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 クラス名は、鰻重と同じで、松、竹、梅。我が学年は、松と竹だけでした。あぁ、松の鰻重が食べたいなぁ。

 これに対し、街中は深刻。学級数がべらぼうに多いのに、それでも収容しきれず複式授業が行われていたのです。朝から通う子と、昼から通う子がいたという訳。

 

 何事にもの〜んびりしていた当時の市役所も、
「こりゃあ、だめだ。」
と思ったようで、旧市内に「第六小学校」が誕生しました。ビリッケツだった我が第五l小が、下から二番目になリました。

 

第五と第六の微妙な関係?

 

 我が第五小が、これにより少しは先輩風を吹かせ、
「第六学校、・・・学校。中を見りゃ先生が・・・」と、今まで第一小から第四小の子どもたちから、さんざん浴びせられてきた「はやし言葉」を、今度は第六小学校のフェンス越しに叫べたか、といえば、叫びもしませんでしたし、そもそも「や~い、やい」と声を揃えることなどできない理由があったのです。
 
 叫びもしなかったのは、第五小の子どもたちは、そんなことをするよりも、川で泳いだり、田んぼでイナゴを捕まえたりする方が楽しかったからです。忙しかったからです。

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 声を揃えることができなかったのは、第六小の方が、新設だから当たり前なのですが、校舎がピッカピカだったので、
「第六学校、きれいだな。中を見りゃ先生もいっぱいいるから羨ましい。」
とならざるを得ず、はやし言葉としてのパワーが著しく欠如してしまうからです。

 

我が校こそナンバー・ワン

 

 市の教育委員会のお偉方か、委員会の幹部職員が、
「学校に番号を付けると、優劣があるように思われてしまう。それは、教育上よろしくない。」
「特に、第五は『ぼろ学校』呼ばわりをされていて、子どもたちがかわいそうだ。」
「そうだ、そうだ。」
と議論したかどうかは分かりませんが、旧市内の6つの学校の名前を変えることになりました。

 

 当時は、現場の先生たちの、そして卒業生であるOB・OGの発言力が強かったので、現場側から教育委員会にアイディアがあがり、そのまま新学校名として決定されたように記憶しています。いくつかの候補から選ばれたような記憶も薄ぼんやりと残っています。

 

 その結果は、極めて興味深いものでした。
 第一から第三までの学校は、明治初期には一つの学校でした。そのため、
「我が方こそ、総本家。」
「『そおぉ〜? ほんけ』かしら。嘘よ大間違い。」
「なぁに言っちゃってからに。我が方が本家本元なの!」
「そっちが本家? そんな冗談、『ほんけ』で言ってるの? うちが家元なんだぜぇ。」
「『いえいえ、もともと』、うちが元祖。」
「『がんそうこう』でも貼ってろってんだ。我が方がアダムとイブなの!」
「この西洋かぶれ!」
「いい加減に『せいよう』。」
と、オヤジギャグの応酬があったかどうかは知りません。
(え〜? 知らないのかい。)

 

第一小、第二小、そして第三小の新校名

 

 ええ、知りません(きっぱり)が、結果は次のようになりました。

 

第一小学校 ・・・ 第一小学校
(そのまんまです。「1番が一番いいね。」てな感じ。)

 

第二小学校 ・・・ 川越小学校
(「川越を堂々と名乗れる小学校が他にあるだろうか?。 いやぁ、ないない。ありえないよ。えへん、おほん。」と自信満々。)

 

第三小学校 ・・・ 中央小学校
(「川越市内のど真ん中は、我が校だ。偉いんだぞ。世界の中心じゃ、わっはっは。」と、「お山の大将、我一人」感が半端じゃあありません。)

 

 第五の子どもたちは、
「要するに、3校とも元祖、総本家、家元を名乗っている訳だ。しょってるね!」
「俺たちだって、ランドセルなら背負ってるぜ。」
と思ったのでした。少なくとも、こやんぴは。

 

第四小、そして第六小は?

 

 では、第四から第六の小学校の場合は、どうだったのでしょうか。

 わくわくしますね。えっ、しない? そんなこと仰らずにわくわくしてくださいまし。

 

第四小学校 ・・・ 仙波小学校
(旧村名が復活。素晴らしき郷土愛。)

 

第六小学校 ・・・ 月越小学校
(月を越えるとは、何とも壮大。アポロ計画よりもはるか前ですよ。進んでますねえ。立地している地域である「月吉」から「月」を採り、「月よりも遥かに高い志」という意味を「越える」の「越」に込めているのかな? それとも、単純に「月」に「川越」の「越」をくっつけただけなのか? ホームページを確認したところ、校歌と校章に、驚くべし、ロケットが入っていました。)

 

「月越小をやけに誉めるねぇ、こやんぴ。」

 

 確かに、月越小に肩入れしているように見えるかもしれませんが、素直な心で「すごいなあ」と思っているだけ。公平無私です。決して、公平無視ではありません。


 確かに、確かにですよ、中三の時に隣の席に座っていた女生徒が最初に好きになった人で、月越小学校の卒業生でした。彼女には、中学の時から二十歳頃まで、ずっと思いを寄せていました。それは事実ですが、それが本件に影響しているということは誓ってございません。こやんぴ印の保証付きです。

 

「保証を付けるってのが、ますますインチキ臭い。」

 

 ほんとだってばぁ!

 

第五小は一体全体・・・

 

 さて、我が第五はどうなったでしょうか?

 旧村名が復活したでしょうか? 地域の地名となったでしょうか?

 

 結論から言うと、「泉小学校」となりました。

 実は、我が第五小には、こんこんと泉が湧き出ていたのです。しかも湧出量ときたら大変なもので、信じてもらえないかもしれませんが、学校が川の源頭となり、地域の田畑を潤していたのです。

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 私たちは、この泉が誇りだったので、
「いい名前でいいな。」
と、新校名を大歓迎したのです。
 今は泉も枯れ果て、湧いていた場所には校舎が建ってしまいました。それでも、「元泉小」とはならず、泉小のまま。
(そんな改名、しないですよね。)

 

 ジイジになった今になると、
「仙波小のように、旧村名にするという手もあったなぁ。」
と思わないでもないのですが、当時は、
「古臭い伝統は捨て去ろう。」
「新しいことは良いことだ。」
「田舎っぽいと、どうもね。」
といった風潮があったので、旧村名は不利な状況にあったのです。

 

 第四小の「仙波」改名については、日光中興の祖である慈眼大師・天海さんに縁のある仙波東照宮が学区内にあったりして、そこそこ良いイメージ。それで文句なく仙波小になったのでしょう。

 

 第五の地域の旧村名は、田面沢(たのもざわ)でした。「たのも」という名は、万葉集に歌われている古歌、しかも情熱的な愛の歌から採られているのです。ですから、私は、
「明治時代の役場の人たち、さすがぁ。」
と感動しています。このロマン溢れる村名が好きでたまらないのです。

 

 でも、学校が田んぼの真ん中にあって、まさに田に面しており、沢が学校から流れ出しているということが、あの頃は・・・

 

(ここで読者の皆さんが『あの頃は』に続けて、『はぁ!』と叫んでいただけると、和田アキ子さんが喜ぶ・・・かな。)

 

 誰が喜ぶとか、悲しむとかの横道から、本筋に戻りましょう。あの頃は、
「近代化を急げ。」
「古い伝統など無視、無視。」
「何をおいても輸出で国を潤すんだ。」
「工業化だ。」
「煙突の黒い煙、最高!」
というような「いけいけどんどん」気分が蔓延していたので、
「田面沢じゃあ、田舎丸だしだよねぇ。」
という流れで不採用となってしまったのかもしれません。