こやんぴの小学校生活 その2 第五の学校、・・・学校
市立第五小学校
私の通った小学校は、私が四年生のときに名前が変わりました。
変わる前の名前は、市立第五小学校。
第五ということは、少なくとも、第一から第四の学校もあるということですね。
実際、そのとおりでした。私の入学した頃は、昭和の大合併以前の市域には5つの小学校しかなく、そのうち、市制施行前からの地域には第一から第三までの小学校が、市制施行時に合併した旧村には第四小学校が、そして、昭和14年に併合された旧村に私の通った第五小学校があったのです。
確かに校舎は・・・
私が通い始めた時点では、合併から20年も経っていなかったので、「町なか」にある第一から第四の小学校と、田んぼの中にある第五小学校とでは、普段話す言葉も違っていたうえに、4年生から6年生まで過ごす旧校舎は、昭和8年の建設。裕福ではなかった村時代の建物でした。
雑巾がけをすると、床の木がささくれ立って、なんと雑巾を突き抜けて手のひらに突き刺さることも。おおこわ。
雷雨になると、まるで歌舞伎の「暗転」のように、教室内がさっと暗くなって、教科書が読めなくなってしまうことも。
「またぁ。こやんぴったっら。」
いえいえ、本当のことなんですよ、これ。
はやし言葉の全盛期
子どもは、正直です。洗練されている町なかの子(市自体も地方都市で、けっして都会的とは言えなかった時代のこと。「洗練されている」といっても程度問題ではありますが。)にとっては、自分たちの通う小学校に比べ、
「第五の学校は、なんだかなぁ。」
と思えたんでしょうね。
当時の子どもたちは、友だちを遊びに誘う際にも、何人かで声をそろえ、
「こぉやんぴちゃ~ん、あ~そぼ。」
などと友だちの家の前で大きな声を出していました。
お店で駄菓子を買う時にも、
第五小学校の子どもなら、
「お~くれぇ。」
(「おくれ」を伸ばして発音。「売ってくださいな」という意味です。)、
町なかの子たちは、
「く~ださいなっ!」
といった具合。
私の従兄弟は、やっちゃんと呼ばれていましたが、悪童からは、
「やっちゃん、屋根から落っこちて・・・」
と節をつけた「はやし言葉」でからかわれていました。
やっちゃんは、私の伯母、つまり、彼の母に向かって、
「なんでYなんて名前を付けたんだよ。」
と八つ当たりしたこともありましたっけ。
今振り返ってみても、当時の子どもたちは、よくもまあ、あんなに大きな声を出していたもんだなと思います。
中を見りゃ先生が・・・
で、町なかの子どもたちが、私たちの住む地域を流れる川に遊びに来たときに、第五小学校の脇を通りかかるわけですよ。すると、その子たちが、節をつけて、
「だ~いごの がっこう ぼろがっこぉ な~かをみりゃ せんせいが こ~くばん たたいて ないているぅ。や~い、やい。」
とはやしたてるのです。
我々第五の子どもたちは、校庭内でこのはやし言葉を聞くかたちとなりますが、自分たちでも、校舎がぼろいということは百も承知なので、かっかとしたりはいたしません。田舎の子はのんびりしたものです。
「校舎がぼろいのは、そのとおりだもんなぁ。だけど、先生が黒板叩いて泣いているのは見たことないよなぁ。黒板拭きなら掃除当番が叩くんだよ。町なかの子は、そんなことも知らねぇんだ。」
「大体よぉ、学校の外からどうやって校舎の中を覗くんだよぉ。」
てなもんです。金持ちケンカせず、ならぬ、田舎の子ケンカせずです。
児童ではなく先生の方が悔しがって、
「みんな、校舎は古くても気にするな。君たちは素直でよい子なのだから。」
などと私たちに言ったりしていましたっけ。気にしていないって、先生。
言葉を失った現代って・・・
自分の大切な名前を「はやし言葉」でからかわれ悲しい思いをした子もいたので、当時のことを全肯定はいたしません。
ですが、最近、子どもだけでなく、大人も、お店に入るとき、レジに商品を差し出すときなど、様々な機会に、「言葉」を失っているような気がします。
「これってどうなのかなあ」などと考えてしまう今日この頃です。
※ 今日の夕焼け
春が近づいてきたことを感じることのできる夕焼けでした。
走って河原に突進し撮影してきました。
虹色の雲も!
カラスがねぐらに帰っていきます。今回は、小さく写りこんでいるのが確認できます、目を皿のようにすると。