「こやんぴ」のぶらりお散歩ブログ

お散歩大好きの「こやんぴ」が、ふと出会った植物や動物たちについて思いつくままに記していきます。

織田家、奥平松平家の城下町「小幡」(群馬県甘楽町)

 甘楽町の小幡地区は、昭和の名水100選に選ばれている「雄川堰」の清流が街中を流れています。

 

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 数年前に訪れたのが最初、昨年も出かけ、旧町人地区の「雄川堰」の清い流れに魅せられたのですが、今回は、陣屋や武家屋敷のあった地区を散策してきました。

 

 甘楽町では、「織田家織田家」と宣伝していますが、織田家が他領に移った後、明治維新まで続いた奥平松平氏には力が入っておらず、極端に言うと「ほったらかし」状態。

 

 織田信長の息子で、司馬遼太郎さんの書かれた小説では、あまり良くは書かれていない信雄。信長死後、家康を頼って秀吉に対抗したかと思えば、家康に内緒で秀吉と和睦したものの、秀吉を怒らせて左遷され、形勢を見て再び家康に近づいて手に入れた5万数千石のうち、小幡は2万石でした。

 

 信雄の子どもの代からは、たった2万石の小藩なので、財政的に苦労したものと思われます。その割に、大名庭園を作ったり、雄川堰を整備したりできたのは、信雄の時代は大和の領地と合わせ5万石を超えていたから可能だったのかもしれません。

 

 案の定、東北に移った織田藩は困窮したようで、廃藩置県前は借金で首が回らない状況だったようです。

 

 奥平松平氏も、同じ小藩の悩みを抱えていたらしく、やはり廃藩置県で借金地獄から抜け出せたようです。

 

 両家とも、あまりイメージが良くありませんが、信長というビックネームがあるので、甘楽町は「織田、織田」となっているのかもしれません。

 

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《 元武家屋敷の庭がよく保存されています。池の水は雄川堰から取り入れているとのこと。 》

 

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《 城下町にはよくある食い違い郭。敵に攻め込まれたときの防御用と思うのですが、案内板には、その他の説として、下級武士が上級武士と顔を合わせないように隠れた、なんて書いてありました。そのために造ります、こんな凝った造作? 》

 

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《 信雄が整備したという大名庭園「楽山園」。訪れる人も少なく、のんびりと散策できます。 》

 

 甘楽町の小幡地区は、派手さはありませんが、訪れるとほっとする地区です。