元号がコロコロ変わった理由
嵐の前の・・・
台風が接近するため、今夜から関東では雨になるとの天気予報。
当然、今日の夕焼けは無し、そう思っていたら、思いもかけない茜空に。
天気予報などなかった時代にこのような台風接近があったとしたら、多くの人が「夕焼けの翌日は晴れ」と信じていた(今でもそうではないでしょうか。)ので、予想だにしなかった天気の急変を「悪魔の所業か?」と感じ、恐れおののいたに違いありません。
かなりの雨が降るとのこと。皆様、ご用心。
我が家も、外の鉢を家の中に避難させたり、雨戸をすべて閉めたり、ごみ箱が飛ばないようにごみ箱の中に重しを入れたり・・・
進路予想が最悪ですね。被害の少ないことを祈ります。
元号って何さ
天気もコロコロ変わりますが、積み残しとなっていた元号もコロコロ変わるというお話、二日も引っ張ってしまいました。そろそろ何とかしなければいけません。
そもそも、元号とは、中国において、天から政権を委ねられた(ということになっている)皇帝だけが制定できるものでした。周辺の国家で中国皇帝から冊封を受けた王国は、自らの元号を持つことなく(というか、持つことが許されず)、中国の元号を使用していました。
日本は、古代の卑弥呼や倭の五王の時代を除くと、足利幕府の日明貿易という例外はあるものの、中国王朝との冊封関係に立つことはありませんでした。
それで、独自の元号を使用することができるのですね。
ご存じのとおり、大化の改新の際、初めて「大化」という元号が定められたのですが、その後、ずっと元号が続いている訳ではなく、初めの頃はあまり根付かず中断があったようです。ずっと続くようになったのは、「大宝律令」で有名な大宝以来。これは知らなかったなぁ。
横道にそれます
ちなみに、実利を求めて日明貿易を行った足利義満は、明皇帝の家来になった形ですから、戦前の歴史教育において、「他国に膝を屈した情けない男」と蔑まれておりました。
でも、朝貢貿易はとても儲かるのです。皇帝としては、周辺の国から貢物をもらった以上、皇帝の権威にかけて豪勢なお土産を家来たる周辺国の王様に渡さねばならないからです。半返しなんてしみったれたことはできません。半沢直樹のように、「倍返しだ。」、「三倍返しだ。」を実行しなければなりません。皇帝もつらいよ、ですね。
そういった意味では、義満さん、実利を追求したやり手なのです。賢いのです。でも、戦前の皇国史観では、「軟弱者!」、「売国奴!」、「へっぽこ!」となってしまう。そもそも、初代の足利尊氏が南朝に弓を引いた「悪人」扱いなので、室町幕府関係者はボロクソに言われてしまうのです。
ますます横道にそれますが、想像上の動物である龍、寺院の天井画などで見かけますが、さて、指は何本でしたっけ?
日本では、基本的に三本。
ところが、中国では、元の時代以降、皇帝向けが五本、貴族などのお偉いさんや冊封を受けている国は四本、それ以下だと三本と決まっていたらしい。
日本は、中国とは別の元号を定めるくらいですから、
「中国皇帝から冊封を受けておりませんので、四本なんて望みません。中国の庶民並みで結構でございますよ。三本、へぇへぇ上等!」
などとへりくだったわけではありますまい。
諸説あるようですが、「日本人は『三』好き」説は、何となく分かるような気が・・・。
「三大東照宮ってどこにあるの?」
「何といっても、日光の東照宮が一番!」
「家康が最初に葬られた久能山も立派だよ。」
「それで、あと一つは?」
「川越にある仙波東照宮。」
「へ~。」
「関東の三大祭ってなあに?」
「あそこが一番でしょ。」
「二番はどこどこ。」
「で、三番目は?」
「川越祭に決まってんじゃないの。」
「『あそこ』と『どこどこ』の祭りは、盛大だものね。分かる、分かる。へ~え、川越祭もそんなに盛大なんだ、すごいんだねぇ。」
超有名な一番目、二番目で人を納得させ、三番目に地元を滑り込ませる三好きの日本人・・・皆さんの地元ではいかがですか?
どんどん横道にそれて、これでは、明治より前の元号がコロコロ変わった理由に行き着きません。軌道を修正いたします。
改元の主な理由
1 天皇の代替わり
これは納得できますね。
2 大規模な風水害、火山噴火、天候不順による飢饉など
嫌なことが続かないように。これも分かりますね。
3 慶事の出現
珍しい動物が見つかったり、貴重な鉱物が発見されたり。
これは、たまにしか起こらないし、自然への畏敬の念が強かった遠い昔の事例。江戸時代にはゼロ。
天皇の代替わりが頻繁だった時代もあるけれど、改元の数ほど頻繁ではありません。「もう、こんな大災害が起こった年号なんて嫌」と思うほどの大災害も、そうしょっちゅうあっては困ります。
ということは、他にも改元の理由があるのか?
あるんです、訳の分かりにくい改元理由が。
その一つが、私の地元の神社の石鳥居に刻まれた「享和」が「寛政」から改元された理由。
この年は、十干十二支上は「辛酉」にあたります。
中国では、この年に政権交代が起こるとされているようです(辛酉革命)。そこで、政権交代されてはたまらない「現政権」が、政権交代後の新しい政権に改元される前に、機先を制して改元することによって「革命」が起こらないようにしているのだそうな。
必ず改元されるわけではないようなのですが、ほぼ60年に一度改元されるというのは、かなりの確率。
ところで、石鳥居に刻まれた「享和」は、どれだけ続いたと思いますか?
10年くらい? 20年は続いたのかな?
それが、たったの3年!
なぜかというと、3年後の「甲子」の年が変乱の多い年とされているからです(甲子革令)。それを防ぐ目的で、たった3年で改元されてしまったのです。
辛酉革命と甲子革令、この二つだけで、ほぼ30年に一度、迷信(?)で改元されていたわけですから、他の理由の改元と合わせると、コロコロ改元になってしまう訳です。
歴史に詳しい人には常識なのかもしれませんが、私はまったく知りませんでした。たまたま、地元の神社の石鳥居に掘られた「享和」の文字がきっかけで、新しいことを知ることができました。
* お詫び
地元の神社の石鳥居に刻まれた年号「享和」を、うろ覚えで「永享」と記してしまいました。慌てて修正。
それにしても、どうして間違えてしまったのやら。悪天候の影響?
「え~っ、影響で『永享』? こやんぴがぼ~っとしていただけでしょうが。」