地元神社の鳥居から改元について考える
これが、当地の元「村社」です。
本殿は、棟札によると、正徳年間(新居白石の活躍した時代です。)の建造の可能性があり、かなり古いといえます。残念ながら、川越市内の他の神社本殿にみられる精緻な彫刻は施されておりません。かつ、四方をがっちり囲っている覆い屋の中にある上、本殿を拝することが可能な拝殿も滅多に開扉されませんので、我々の眼に触れる機会は多くありません。
石灯籠は、倒壊防止のために鉄骨でガードされていますが、江戸時代に遡るほどの古さはありません。
狛犬もしかり。
「歴史を感じるものが少ないのは残念だなぁ。」
そう思っていたのですが、どうも、ぼや~っと生きていたようで、チコちゃんに叱られてしまいそうです。
石鳥居を見落としておりました。
「どうせ、明治以降だろ。」
そう思い込んでいたのです。
今年になって、他の神社の灯籠や鳥居の年号を確認したことがあったのに、地元の神社の鳥居については何の確認もしていなかったとは、なんたる迂闊さ。
生まれて初めて、六十年以上も経ってから、村の神社の鳥居をじっくりと拝見しました。
そこには、「享和元?辛酉」と刻まれていました。
あまり聞きならない、見慣れない年号だったので、ネットでチェック。
その結果、享和元年は、西暦1801年であることが分かりました。217年も前ではありませんか。子供の時以来、ぼや~っと見てきた鳥居、なんてことないと思い込んでいた鳥居が、まさか、そんなにも古いものとは思いもしませんでした。
それ以上にびっくりしたのは、享和元年に、その前の元号である寛政(松平定信による寛政の改革で有名なあの寛政です。)から、どんな理由で改元されたのかということ。
鳥居に刻まれた「酉」は、もちろん、酉年を意味しています。そして、西暦1801年は、十干十二支の「辛酉」。
私は、明治より前の改元が、不規則に、ころころころころ変わるのは、
「飢饉が続いたり、騒乱が起こったり、この年号だとろくなことないなぁ。年号を変えちゃおう。」
とか、
「なんか、秩父で銅が採れたと言って献上してきたぞ。いいことがありそうだね。『和銅』って改元しちゃおうぜ。」
「白い雉が献上されたぞ。珍しいな。よし、改元だ。まんまだけど『白雉』がいいね。」
といった具合に、極めておぞましい事態が次々と起こるので、縁起でもないから改元したり、跳びあがるほど喜ばしいことがあったのを記念して改元したりするんだろうな、ずっとそう思っていました。
もちろん、そういった改元の例は少なくないようです。
たとえば、「享和」の前の「寛政」に改元されたのは、その前の「天明」が、飢饉や浅間山の噴火など、ろくなことがなかったから。
でも、「寛政」から「享和」への改元理由は違っていました。
ちなみに、「享和」は、たった3年で次の「文化」にバトンタッチしています。享和年間に、後の歴史に残るようなおぞましい事態が生じたわけでもなく、欣喜雀躍するほどのうれしい事態が連続して起こったわけでもなく、わずか3年。
なぜでしょうか? 明日に引っ張らせていただきます。