川越市的場(まとば)小探訪
歯医者さんに自転車で出かけました。
数十年前のブリッジが限界を迎えていて、今後、治療に時間とコストがかかることになりそうです。やれやれ。
帰りがけに、的場中組の鎮守、的場八幡神社に寄ってきました。とても小さな神社ですが由緒がありそうな雰囲気が漂っています。
石鳥居には文化二年とあるので、1805年の建立。
200年以上前から、地域の人々の暮らしを見守っていたことになります。
拝殿前の石灯籠は、鉄柵で覆われています。
私の「村」の鎮守でも、石灯籠は同じような状況になっています。何故かというと、いたずらっ子がよじ登って遊び、倒したことがあったから。
同じような理由からかもしれません。
老朽化による自然倒壊防止とも考えられますが・・・
石灯籠のうちの一基には、文政十年とありました。鳥居より少しだけ新しく、シーボルト事件のあった年の一年前である1827年生まれのようです。
別の側面には、奉納者として「上的場村講中」と記されていますが、その横に、「高麗郡」との記述が。
現川越市のうち、入間川の左岸側は、1896年(明治29年)まで、入間郡ではなく、高麗郡に属していたからです。
拝殿の後ろに回ると、本殿があります。拝殿と同じくらいの大きさの建物は覆屋であって、市指定文化財の本殿は、覆屋の中に納められています。
そっと覗かせていただくと、目が合いました。
神様と?
まさか。
誰にも邪魔されずにまったりとしていた黒猫とアイコンタクトしたのでした。
黒猫は、
「面倒くさい奴が来たもんだ。」
とでも言いたそうな態度で、のそのそと出ていきました。
写真には、尻尾が写っています。
上の写真は左側面にあたります。彫刻がびっしりと彫られています。実に精緻。
中央やや右の女性像は、神功皇后。男性像は、武内宿禰。赤ん坊を抱いていますが、後の応神天皇です。反乱があった際に、宿禰が神功皇后と後の応神天皇を守護したという伝説によったもの。
下の写真は、裏面。
松も鷹も波も、実に生き生きとしています。
右側面は、下の写真のとおり。
司馬温公(司馬光)の瓶割りの故事に因むもの。
司馬光自身が子供の頃、高価な瓶の中に落ちた子供が溺れそうだったので、緊急避難として瓶を割った場面が彫られています。
彼は、親から叱られると覚悟していたらしいのですが、父親は、司馬光の果敢な行動を誉めたとのこと。
人命第一ですものね。
「女性は土俵から降りてください」関係者は、この故事をじっくり噛みしめるべきです。
下の方まで、実に丁寧に、生き生きと彫り込まれています。
本殿正面と右側面。
破風も堂々たるものです。
本殿が製作されたのは、19世紀の中頃と推定されているようです。
川越の的場地区は、巨峰の名産地なのです。秋に大きな宝石となるためには、ジメジメの梅雨と酷暑という試練を乗り越えなければなりません。
辻の石仏。
昔は、道と道が交差する所には、地蔵菩薩や様々な観音像がいらして、人々が毎日のようにお参りしていたものです。
最近は、どこも、お参りする人が減ってしまいました。
でも、この辻では、真ん中のお地蔵さまに、小さなお供え物が。ビワでしょうか?
向かって左の観音は、千手観音と思われます。
鉄道の廃線跡?
埼玉県営鉄道(公営交通が一つもない埼玉県に、なんと、県営鉄道があったのです。しかも、川越市に!)の廃線跡の可能性あり。今後、地図と現地のチェックを行う予定。
ワルナスビ。悪い茄子と呼ばれても、花はきれい。雌しべがつんとすましているところが面白い。
刺はあるし、毒だし、欧米でも嫌われもののようで、英語で、悪魔のトマトともいう言い方もあるらしい。
刺も、毒も、昆虫などの食害から身を守る手段なのにねえ。