「こやんぴ」のぶらりお散歩ブログ

お散歩大好きの「こやんぴ」が、ふと出会った植物や動物たちについて思いつくままに記していきます。

川越線の西川越駅は、違う駅名だったかも

市民待望の国鉄川越線が開通

 

 JR川越線は、起点が東北本線の大宮駅、終点が八高線高麗川駅。全長30.6キロの路線で、1940(昭和15)年7月に開業しました。

 

 「国鉄路線を川越から大宮まで新設させ、川越を幹線鉄道である東北本線に接続させたい。」

 これが明治以来の川越市民の願いだったのですが、なかなか実現しませんでした。それが、東海道本線など、海岸線近くを走る鉄道の弱点である「『敵』の艦砲射撃の標的となり、使用不能の事態も想像される」ことへの担保として急遽建設が決定したのです。

 そして、太平洋戦争の始まる前年に「棚からぼた餅」で開業したのです。

 

 直線区間が長いのは、「女将」じゃなくて、「お上」のご意向が何でも通る時代だったからかもしれません。私の住む地域でも、真っ直ぐにレールを敷設するために、大正時代に区画整理が完成した美田が無惨に分断されました。

 今でも、その痕跡を確認することができます。お役人様の強権の前に、涙をじっと堪えた地権者も少なくなかったことでしょう。


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* 西川越駅はホームが一つの「停留所」。

* 上り下りの列車が同じホームに到着します。

* 階段の昇り降りがないので、便利と言えば便利。

* 「閉塞区間」(1列車しか入れない区間)が長い。

* なので、列車本数を多くできません。

 

 

8つの駅の名前は・・・ 

 

 起終点の2駅を除く建設当時の駅は8駅で、名称は次のとおりです。

日 進  にっしん    (さいたま市

指 扇  さしおうぎ   (さいたま市

南古谷  みなみふるや  (川越市

川 越  かわごえ    (川越市

西川越  にしかわごえ  (川越市

的 場  まとば     (川越市

笠 幡  かさはた    (川越市

武蔵高萩 むさしたかはぎ (日高市

 

 駅名は、1駅を除いて、後でご説明しますが、「まあ、妥当な命名かな」と思えるものとなっています。

 実は、例外の1駅が、よりによって我が家の最寄り駅、西川越駅なのです。 

 

ああ西川越、あなたはなぜ西川越なの?

 

 「西川越」というと、何となく街中にあるモダンな駅のようなイメージ。でも、開業当初から経済高度成長の初期までは、ホームから見えるものと言えば、田圃と、そのずうっと先の栃木の男体山、群馬の赤城山などの山々のみ。

 

 春一番の頃には南方に位置する川越台地の芋畑から土煙や砂塵がもうもうと押し寄せ、田植え時にはカエルがゲコゲコと大合唱。冬は北風がピューピュー。乗降客も数えるほどの田舎駅。

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* 今でも小さな駅ですが、乗降客はそこそこいます。

 

 各駅の名前の由来は、当時の市町村名、大字名と対比すれば一目瞭然です。しつこいようですが、1駅だけ仲間はずれの駅がありますけれど。

日 進 (日進村)

指 扇 (指扇村)

南古谷 (南古谷村)

川 越 (川越市

西川越 (川越市

的 場 (霞ヶ関村大字的場)

笠 幡 (霞ヶ関村大字笠幡)

武蔵高萩(高萩村)

 

川越駅の名前を強奪? 

 

 1つの村に1駅の場合は、その村名がそのまま駅名となっていますね(日進、指扇、南古谷及び武蔵高萩)。

 

 1つの市、または村に2駅の場合は、川越市霞ヶ関村とで違う取扱いとなっています。

 霞ヶ関村には二つの駅ができたので、それぞれの大字名(明治の大合併以前の村名)が駅名となりました。

 

 川越の場合は、大宮駅寄りの駅が、市街地の外れにあった東武東上線の川越西町駅に併設される形となり、「川越駅」を名乗りました。その際、東武東上線の川越西町駅が右へ倣えで「川越駅」となったばかりではなく、それまで「川越駅」を名乗っていた川越鉄道(現西武新宿線)の始発駅も改称を強いられたのです。

 お役人様(鉄道省)は強かった、実に強かった。後から来て、「川越駅」の名前を強奪した形です。

 

 川越鉄道は、よほど悔しかったのか、「本当の川越駅はこっちだい!」とばかりに「本川越(ほんかわごえ)駅」という名称にした、のかな?

 

歴史に「もしか」はないけれど

 

 もう一方の高麗川駅寄りの駅は、川越駅の西側にある、というだけのつまらない駅名、「西川越駅」となりました。

 この駅周辺の住民であるこやんぴは、

「センスないよなぁ、プンプン。」

と怒っているのです。実に残念でならないのです。その理由とは・・・

 

 川越線の開通する1年前までは、西川越駅周辺は、川越市ではなかったのです。田面澤(たのもざわ)村という別の市町村。純農村地帯に属しており、財政は豊かではなかったけれど、それでも独立した「市町村」の一つだったのです。

 

 川越市との合併は、川越市に隣接する地域の村人たちが、すぐ隣の地域まで川越市の下水道が整備されたことに焦りを感じて画策したのがことの発端。

「村のままじゃあ、いつになっても下水道は来ないわなぁ。この際、川越市編入しても~らおっと。下水道を引いても~らおっと。」

 てなわけで、田面澤村は1939(昭和14)年に川越市という大鯨に呑み込まれてしまったのであります。

 

 歴史に「もしも」は許されませんが、もしも、吸収合併が川越線開業の後であったならば、西川越駅は、おそらく村名の「田面澤駅」か、大字名の「小ケ谷駅」となったでしょう。ああそれなのに、田面澤村の村民スケーターが、焦りすぎて二度フライングをしでかしてしまい、一度も滑らずに失格してしまった、そんな感じです。

 

 うらやましいのは「日進駅」の所在地である旧日進村。この村は、川越線開業の年の11月に大宮町などと合併し、大宮市(現さいたま市)の一部となりました。まさに滑り込みセーフで昔からの地名を駅名として残すことができたわけで、ちょっと嫉妬してしまいます。

 

 田面澤の名前は、今や、いるまの農協田面沢支店に残るのみ。寂しい限りです。いっそのこと、私の事務所の名前にも「田面沢」を入れちゃおうかなぁ、と思わないでもありませんが、読めないだろうな、「たのもざわ」って。

 

 ちなみに、「的場駅」という名称は、東上線霞ヶ関駅の旧名称でした。したがって、旧駅名が別の鉄道で復活した形。これまたうらやましい!

 その昔、東上線開業当初の終着駅が私の住む地域にあって、その名称が「田面澤駅」だったので、「的場駅」同様、「田面澤駅」復活のチャンスだったんだけどなぁ。惜しかったなぁ。