お彼岸7人+1匹散歩
お彼岸で集まったおちびさんたちと墓参、そして散歩。
昨年の台風で傷ついてしまったお寺の枝垂れ桜は、上の方の花が少ないものの今年も良く咲いてくれました。
お寺から、隣の公園へ。
ユキヤナギには、葉よりも花の方が咲きに開くタイプと、同時のタイプがあるのでしょうか? これは、後者。緑と白の対比が美しい。
三分咲きのソメイヨシノや、アマナ、ヤマエンゴサクなどを楽しみ、帰りがけの道路下5メートル下に、シロバナタンポポが。当地では、ここと後数ヶ所のみに自生するのみ。毎年、よく咲いてくれます。
すぐ近くの事務所の花壇の片隅に、小さな小さな花を咲かせるキュウリグサが。ワスレナグサによく似ています。
これは、大きいのでオニタビラコかもしれません。
おちびさん二人にもカメラを持たせたところ、二人で300枚も撮影。ここには一番前の写真以外は公開していませんが、私とは目のつけどころが違う写真ばかりなので、ずいぶん楽しませてもらいました。
ホトケノザの不思議発見(私にとって)!
ホトケノザ(シソ科オドリコソウ属)を巡る考察を、ここのところ、まるで理科の自由研究のように進めました。一度記した内容ですが、新しく知ったことを加えて、もう一度レポートします。
家に咲いていたホトケノザの茎を数本摘んできて、タブレットの上にそっと置き、花を正面から撮影したのが、この写真。
「花の上の方に雄しべが一本伸びてきている!」とびっくりした」り、「雌しべは筒の下の方に隠れているのだろう」と想像したり。
でも、よくよく観察してみると、雄しべは一本ではありませんでした。葯が複数見えますよね、約数本。
そうなのです。一本に見えた雄しべ、実は4本の雄しべの合体した姿だったのです。
そして、雌しべは、雄しべに囲まれていて見えないだけ。キクザキリュウキンカの咲き出しの頃と同じです。雌しべは、雄しべが葯にたくさん付けている花粉を虫にほぼ擦り付け終わった後に、雄しべの陰からその姿を現し、他の花の花粉を受け取るのでしょう。
自花受粉を極力防ぐ驚異のシステム。
次に、下の写真をご覧ください。
ホトケノザの茎をタブレットカバーの上に置いたところ、目に見えないほどの粒がこぼれ落ちたのです。
ぐぐっと寄って撮影したのがこれ。
正確には実(み)ですが、痩果なので種と言っても良いでしょう。ややこしいので、以下、種と呼ぶことにします。
そうっと置いたのに、このように無数の種がポロポロこぼれ落ちるのですから、繁殖力の旺盛さをうかがい知ることができますね。
畑一面に広がるわけです。
「ちょっと、待った~。どうも、ヒゲじいです。ポロポロ下にこぼれ落ちる種じゃあ、親苗のすぐ下にしか幼苗は生えてこないんじゃない? 畑一面に広がる訳がなかろう。」
それがねえ、ヒゲじい、種をよく見てごらんなさい。
「うん、どれどれ。おや、何か白っぽいものがついておるぞ。もう、根っこが生えておるのかのぉ。根っからの慌て者、なんちゃって。」
違いますよ、ヒゲじい。この白い部分は、「エライオソーム」と呼ばれるアリが大好きな物質。
アリは、エライオソームの付着した種を巣穴近くまで運び、仲間総出で種からエライオソームを剥ぎ取り巣穴へ貯蔵。エライオソーム以外はアリにとっては廃棄物ですから、ぽいと捨てられてしまいます。結局、ホトケノザは、その種を労することなく遠くまで遠征させることに成功するので、子孫を広範囲に増やすことができるのです。アリのお陰です。
アリさん、ありがとう!
ホトケノザは、スミレ、カタクリ、アマナなどと同様、アリに種を遠くまで運んでもらう「アリ散布植物」。
えええ、そんなのあり~?
そんなのありです。
もっとも、田畑一面にホトケノザが広がり、農家の人々を困らせるのは、アリの働きばかりではありません。人が耕耘することによっても散布されるので、人散布植物という面もあります。
これで、ホトケノザの自由研究はおしまい。
小学校低学年の児童だったら、文部科学大臣賞ものだったかもしれません。でも、70歳直前なので、「エライオソーム」ではなく、「えらい遅〜、無理~」な研究。
ムラサキケマンの悲しみ
ムラサキケマン(ケシ科キケマン属)。
キケマン属なので、春の妖精であるヤマエンゴサクとは同属。
花の形こそ似ているものの、ヤマエンゴサクほど愛されないのは気の毒な話。
なぜなのでしょう?
一つには、「儚さ」が不足しているという点があげられるかもしれません。ヤマエンゴサクの葉はとても小さく、触れれば消えて無くなってしまうようなか弱さを漂わせているのに対し、ムラサキケマンの葉は元気に生えあがり、いかにも丈夫そうです。野生児のよう、と言っても良いかもしれません。
そして、ヤマエンゴサクがあっという間に地上から消えてしまうのに対し、ムラサキケマンはかなり長く居座っています。日本人の大好きな「無常感」が徹底的に不足しているのです。
決定的なのは、繁殖力が抜群であること。ヤマエンゴサクほど環境を選ばず、荒れ地でも生きていくことができるので、どんどん子孫を増やしていきます。
ですから、どうしても、人間に「しぶとい雑草め!」と思われがち。
かくいう私も、家のあちこちにはえるムラサキケマンを引き抜く決心をすることがあります。かわいそうですが。
そうしないと、狭い庭中がムラサキケマンだらけになってしまうからです。
で、引っこ抜こうとすると・・・
ムラサキケマンは、驚いたことに、激しく抵抗するのです。
私の手や顔に矢継ぎ早のパンチ攻撃。パチパチパチ。
大量の種がはじけて跳ぶんですね。あまり痛くはありません。それでもびっくりします。豆をまかれて仰天する鬼になった気分。
(ヤマエンゴサクの種もはじけるます。でも、もっと優しくはじけるのではないでしょうか。当地では貴重な存在であるヤマエンゴサクを引っこ抜くなどありえませんので、推測するしかないのですが。)
そんなわけで、翌春、またまたムラサキケマンが家のあちこちに生えてきます。
朝散歩でアマナの蕾を発見!
朝の散歩。
まずは、お彼岸なので、墓前に備えられている花の水を取り換えに。
お寺の大きな紅葉の木にヒヨドリがたくさん。すぐ隣に咲いている枝垂れ桜の蜜を吸いに集まっているのです。
川越水上公園のソメイヨシノもほころび始めました。
今年は、何という早さなのでしょうか。来週には満開となるでしょう。
ヤマエンゴサクの開花は、つい先日に確認したところですが、恐らく、アマナも開花時期を迎えていると考えていました。そこで、自生地を確認。
アマナは、太陽が高くならないと花を開かないので、朝の段階で花を探すのは大変です。
やっと蕾を一輪確認しました。
お昼過ぎに、もう一度見に出かけたところ、幸い、何輪もの開花を確認することができました。
以前、アマナは「日本原産のチューリップ」とも呼ばれていました。でも、チューリップの花茎には葉がないのに、アマナにはあるなど、形態的な相違があり、恐らくDNA解析の結果も踏まえた結果なのでしょう、最近では、別の「属」とされています。
面白いことに、原種のチューリップとして栽培されている小さな「チューリップ」の中には花茎に葉のあるものがあります。もしかすると、これはアマナ属なのかも。
センダンの木の葉痕
大きな葉を繁らせる落葉木の枝には、秋に葉を落とした際に、その痕跡が残ることがあり、これを、そのものずばり「葉痕(ようこん)」と言います。
オニグルミは、葉が大きいことから、葉痕は明瞭、かつ、千差万別。
いろいろな形があることから、
「あっ、これ、人間の顔そのものだ。」とか、
「犬に見える。」とか、
「まるで仏像みたい。」などと想像しながら眺めることができます。花の少ない時期の植物探索にもってこい。
最近の散歩の際、センダンの木をふと見ると、おお、ここにも無数の葉痕が。
ただ、千差万別ということはなく、皆同じような模様。
ミッキーマウスによく似ています。商標に厳格なディズニーからクレームがつくのでは? そう心配してしまうほどのそっくりさん。
ミチタネツケバナ
在来のタネツケバナによく似ていますが、外来種のこちらの方が早く咲きだします。
タネツケバナにせよ、ミチタネツケバナにせよ、花を咲かせた後にどんどん細長い実をつけます。
だから、「種付け花」なのかな、そう思っていました。
でも、それっておかしな話ですね。だって、多くの植物が花の後に実をつけますものね。この花に限った特徴ではありません。
由来を聞いて、なるほど。
タネツケバナは、田んぼにたくさん生える植物。
これが白くてかわいらしい花をつける頃が、ちょうど、種籾を水に漬けるのに適する時期らしいのです。
つまり、タネツケバナは、花を咲かせることによって、
「お~い、そろそろ例の作業をしてくださいよ。」
と、お百姓さんに教えてくれるというわけ。
タネツケバナは田んぼや畦道など湿った土地にしか生えませんが、外来種のミチタネツケバナは乾いた道路でも平気の平左。だから、ミチタネツケバナ。街中にまで進出しています。
地獄の釜の蓋閉めよ
昨日のスマホ買い換えが長時間に及んだため、その後のスケジュールの狂うこと、狂うこと。
さて、そのような次第で、昨日は写真のみ掲載の・・・
春の始め、田の畦道や林野の地面すれすれに、まるでかくれんぼをするかのように身を潜め、ひっそりと咲いています。花の大きさは5ミリメートル前後。まったく目立ちません。
遊歩道では、その存在に気がつかない人たちに踏みつけられたりもします。幸いなことに、茎を上に向かって伸ばさないので、ポキッと折れたりはせず、けっこう丈夫です。
キランソウという名前の由来には諸説あるようですが、「金襴緞子」を思い起こさせるきらびやかな語感。どうも、名は体を表していないような・・・
園芸品種でもある綺麗な花、ジュウニヒトエとは親戚筋にあたるのに、ちょっと気の毒。
昔の人たちは、地べたに這いつくばりながらも元気に育つこの植物に「相当な薬効」があると考えたようです。
煎じて飲めば、あら不思議。
鬼たちが地獄で釜の蓋を開け、
「お客さ~ん、もう充分煮立ってるよ~。いつでもいらっしゃ~い。」
と待っているのに、重篤の病人がけろっと治ってしまった!
ということがあったのか無かったのかは不明ですが、服用した人が回復するケースがちらほらあったのでしょう、
「あんれまぁ、この草は病気に効くんだねぇ。これじゃあ、鬼さんたちも、『だめだこりゃ。お客さんがちっとも地獄に来ねえや。釜の蓋、せっかく開けたけど、閉めちゃおうぜ。』となるに違ぇねぇ。」
そこで付いた別名が「地獄の釜の蓋」。
残念ながら、現代科学は無粋です。「薬効は確認できない」とのこと。